数学ってやったほうがいいのかな?っていう話
勉強が必要か否かという話題が出ると大体名指しで言われることの多いのが数学。
では数学とは本当に必要なのかな?そんな事を自分なりに整理してみます。
◆目次
1.観点の分離
2.教養としての数学
3.学問としての数学
4.まとめ
1.観点の分離
まず、わたしの立場をはっきりさせると「やっぱり数学はやった方がいいんじゃないかなぁ〜」派です。
ですが、この「やったほうがいいんじゃないかなぁ〜」には色んな意味が含まれているので、多分これをはっきりさせないで話すと、聞いている人とわたしで認識がズレる気がします。
なのでまずそこを合わせることにします。
本当はもっと色々観点はあると思うのですが、ここでは「教養としての数学」と「学問としての数学」という2点で観点を分けることにします。
これは個人的に思うのですが、「勉強してなんの役に立つんだ!」っていう人が知りたいのは前者が知りたい気がします。
わたしはどちらかというと「役に立つとかそんなこと関係なく楽しいよ!」ってタイプなので真っ先に話すのは後者としての数学です。
なのでたまに数学っていいよ!って話をされても響かない人がいるのはこういうズレがあるからじゃないのかなぁなんて思ったりします。
というわけでこう言う目次にしてみました。ご認識くださいね。
2.教養としての数学
さて、そんなわけでまずは教養、つまりは一般常識としてやっぱり知っといた方がいいよね!って話をします。
とはいっても「知っておいて損はない!」なんて言われたって自分はどうせ使わないし...なんて考えちゃいますよね。
そういう時、数学にはよくある考え方があります。
それは、「あったら便利!」を考えるより、「なかったらどうなっちゃうの?」っていう事を考えることです。
そうですね...もし数学がなかったら...今の便利なものは殆どないかもしれません。
例えば、スマホ。これの裏側は数学的な理論がベースになって出来ています。なので数学がなかったらスマホいやそもそも電話なんてものがないかもしれないですね。
え?それはなんとなくわかる?だって機械はコンピュータで動いてるからそうだって?
そうですね...じゃあそうじゃないものも考えてみましょう。
さて、お話をご覧になっている方がおいくつなのかわたしにはわからないのですが、保険って知ってますか?
生命保険、自動車保険、火災保険、もしものために必要ですね。例えば車で事故を起こしちゃった時、保険がなかったらどうなっちゃうでしょう?困っちゃいますね。
でももし数学がなかったら、保険なんてものはこの世に存在しないかもしれません。
何故かって?保険料ってどうやって決めると思いますか?
「なんとなーくこの人は事故起こさなさそうだからこのくらい!」
なんてそんなことしたら破綻しちゃいますね。
そこで
「このくらいの人だったら、事故を起こす確率はこれくらいだから、このくらいお金を取っておけば元がとれるな!」
となってるかは保険を作ってないのでわからないですが、確率論、つまり数学に基づいて作られている仕組みなんです。
この仕組みがなかったら保険屋なんてみんな商売あがったりです。
そしたら保険屋さんはいなくなっちゃって、みんな怯えながら車を運転することになっちゃいますね。
ちょっと大事かも?って思ってきました?
こんなように、数学ってみなさんが何気なーく使っている何かの下地になっているものなんです。
例えるなら道路と交通ルールのようなものです。私たちは車やバイクに乗る時、「おお!今道路の上走ってるな!」なんて意識しませんよね。
またみんな何も言わないけど、それなりに道路を走る時のルールを守っている気がします(たまにそうじゃない人もいますけどね)。
数学というのは実はそういうもので、それはもう色んなところに道があって、そのためのルールや枠組みが整理されまくってます。
なのでこれをぜーんぶ引っこ抜いちゃうと大変なことになっちゃうわけですね。
そして色んな世界に張り巡らされているということは、普段は意識しなかったけどひょっこり顔を出してくることもあります。
じゃあこのひょっこり出てきた何かを「なんとかしてください!」って言われた時に出来ませんだと困ってしまうことも...あるかもしれません。
どうでしょう?やった方がいいんじゃないでしょうか。
え?じゃあそんなもの見えないところに行けばいいじゃんって?
それはそうかもしれません。
例えば、わたしもスマホがどういう仕組みで動いていてうまく成り立っているのか、なんとなーくは分かるけど詳しくは知りません。
でもスマホの使い方は知ってますし、なーんにも困ってません。
今はAIなんてものも出てきました。なんだかよくわからないけどいい感じに答えを出してくれるからOK!なんだか魔法のように感じます。
しかし、実際は魔法ではありません。人間が作り出した枠組み、数学によってできています。
という事は数学を知っている人間ならば正体を見破れるかもしれません。この正体を見破れるかもしれないという可能性を持っている事が実はとっても大事です。
わからないって状態は人にもよりますが結構怖い状態なんですね。わたしはとっても怖いです。
なので「この世に張り巡らされている魔法のような仕組みが分かるかも!」にするために数学はやっぱり必要なんじゃないかな〜っていうのがまず一つ目です。
長くなっちゃいましたね。
3.学問としての数学
さて、ここまでは「必要になるかもしれない」数学の話ですが、ここからはまた別の話です。つまり、やってみたら「あれ、意外と面白いかも?」っていう数学の話ですね。
さきほど言った通り、数学っていうのはいろんな基礎になっています。なので数学を学ぶことはある意味、機械などを分解することに似ているかもしれません。
あるいは、積み木の様にいろんな形の木を積み重ねてお城を作るような、そんな学問でもある気がします。
ちょっと、これだけじゃ面白さがわかりづらいですね。では少し昔ばなしをしましょう。
おそらく皆さんは小中学生の頃、作図を習ったかと思います。そうです、定規やコンパスを使って書くやつです。
角の二等分線や垂直二等分線なんて単語をもしかしたら覚えていらっしゃるかもしれません。
この作図については紀元前、つまり2000以上前から実は研究されていました。古代ギリシアの人たちですね。
彼らは定規とコンパスだけを用いて色々な図形の作図方法を編み出しました。ここで編み出された作図方法というのは言ってしまえば神業的なやつです。
数学を少しやられた方なら「いやこんな補助線の引き方思いつかないよ!」みたいなこと思いませんでしたか?わたしも思ったことがあります。
上記のようなことは作図を研究する人にも同じでした。神の一手を模索し続ける、そんな学問だったわけです。
(この作図問題は色々な転換期があり、どれも非常に興味深く、そしてそれを書く余白も十分にあるのですが、少し話をするには疲れてしまうのでかなり話をすすめます。)
さて突然ですがみなさんに質問です。
正17角形はコンパスと定規だけで作図可能でしょうか?
どっちだと思います?
実はこれ、作図しなくてもわかってしまいます。
作図なのに作図しなくてもよいとはどういう事か、というと作図で作れる線の長さに注目するとわかってくるんですね。実はこんな事実が知られています。
定理
ある図が定規とコンパスで作図可能となる必要十分条件は、作図に必要な長さが、「加減乗除と根号の操作」の有限回な繰り返しによってあらわされることである。
はてどういうことか?といいますと、つまり図を書くという問題が作図で使う長さの問題にすり替わるということになります。
長さは数式で表されますから、作図したい図形の辺の長さを考えて、それを式に落とし込みます。その時に出てくるのが方程式です。
みなさんも中学校で一次方程式や二次方程式を解いたことがあると思います。実は方程式が解けると作図問題が解けるんですね。
さらにこのすり替えの良いところは汎用性の高さにあります。
例えば正三角形と正四角形の作図を取ってもその方法は全く違うでしょう。このようにある作図方法が別の作図方法に有効とは限りません。
一方で方程式で解くのは、次数を変えて考えればよく、全くとまではいきませんが類似した議論で作図可能かを判定することができます。
このように実際に図を描くのではなく計算だけでなぜか図形の問題が解ける。これってなんだかおもしろくないですか?おもしろいですよね?
こういった議論を重ねる面白さ、物事をいろんな角度から見る面白さが数学のいいところかなぁなんて思ってます。いかがでしょう?
ちょっとあっさりですが、「学問としての数学」について触れてみました。
(正17角形が作図可能かどうか気になった方はぜひ調べてみてください!)
4.まとめ
というわけで、今回は「教養としての数学」と「学問としての数学」の両方についてお話しさせていただきました。
冒頭に述べました通り、わたしは「やったほうがいいんじゃないかな~」派です。
そこでまず「教養としての数学」というところで、数学はいろんなところに張り巡らされている道路の様なものだとお話ししました。
そしてそれを知っておくことで、ひょっこり顔を出した時に対処できる、仕組みを知ることができる。
だから数学ってやっぱり知っておいた方がいいんじゃないかなーという話でした。
次に「学問としての数学」をほんのすこーしお話しさせていただきました。
その中でいろんなことをいろんな角度から眺めて考えることって面白いよ!ってことをお伝えしてみました。
最後になりますが、これを読んでくださった方々が少しでも数学に興味を持ってくれたらうれしいなーと思います。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
またいつか