サイをふる、それに意味はない

"習慣は人を作る"

 

この言葉は、誰もが知る偉人の言葉でもなく、ネットに流れている出所のわからない言葉でもない。これは紛れもなく、一語一句、そのすべてがわたしの言葉だ。

 

---サイをふる、それに意味はない---

 

人は自分自身が思うほど、自分の状況を理解できてはいない。これはわたしの主観でしかないけれど、おそらくどんな人もそうだと思う。よくよく考えてみると、日々の行動はそのほとんどが意識すらしない行動なのだ。だからこそわたしは、習慣を大切にしたいと思う。これはいま書いている日記もそうだ。いや、正確には日記も習慣にしたいと思っている。そうなっていないのは、昨日書くつもりだった日記を今日、つまりは、次の日の朝書いているのが物語っているのだけれど。

 

それはともかくとして、だからこそ良い習慣を作り悪い習慣を絶つことは、自分自身を良いものに導くものだと、わたしはよく考えるようになった。思えば私の習慣は、悪い物ばかりだったのではないだろうか。

 

例えば、わたしはよく「何かを成さなければならない」と自分に言い聞かせる習慣があった。「何かを成さなければ生きている価値などない、だから常にそれを模索し続けなければならない」そんなことばかりを自分に言い聞かせていた。でもそうではなかった。そうではないと、わたしの友人が、茜さんが教えてくれたのだ。ただ、わたしでいるだけでいい。生きているだけでいいのだと、彼女はわたしに言ってくれた。だからわたしはいま、こうして筆をとることができるのだ。

 

そうそう。最近はこの習慣に私も抵抗するようになった。そうではないと抵抗するための習慣を考えてみた。それはこの、何の変哲もないサイコロ2つが握っている。

 

(今日も、ふってみますか)

 

2つのサイコロを振って、その出た目を記録する。これに意味はないし、この出た目の意味も全くない。まあ、都合36通りにすべての意味を与えられるほど、わたしの想像力は豊かじゃないのだけれど。

 

わたしには、必要以上に裏を読もうとするところがある。そんなことをする必要ないのに気にしてしまうことも沢山ある。

 

例えば年齢。

 

わたしより年上なら「経験のあるベテラン」、自分の年齢以下なら「私よりも未来ある人」。それがわたしにとっての年齢の意味だった。

 

(今日の目は..."25"か)

 

本当はただ「その人が生きた年月」以外の意味なんてないのに。

 

「もうこんな時間やんかー!」

 

静寂を切り裂くような声。わたしの友人だ。

 

「ゆかり、なんで起こしてくれへんのよ!?、ってなにちぢこまっとるん?」

 

茜さんのせいだ、とは言わないけどそうだ。

 

「なにしとったん?」

 

「あぁ、えっとこれを...」

 

おもむろに手に持っているものを差し出してみる。

 

「サイコロ?なんかのおまじない?」

 

「まぁ...運試しみたいなもんでしょうか」

 

まさか意味がないとは言えなかった。

 

「なぁ、ほんならうちの振ってもええ?」

 

「はぁ...」

 

「で、これ何が出たらええの?」

 

そんなこと言われても困る。

 

「まぁ、ぞろ目...ですかね」

 

「うし、ぞろ目な!だしたるわー」

 

適当なことをいってしまった。

 

サイが転がる。その目は...

 

「おぉ、これむっちゃええんちゃうか?」

 

「まあ、ぞろ目ですし、おめでとうございます」

 

まさか本当に出るとは思っていなかった。

 

「まぁそれもそうやけど、これは""いい””1日ってことやろ?」

 

「...そうかもですね」

 

まあ、そんな意味なんてないのだけれど。でもたまには、そんな意味があっても、いいのかもしれない。

 

そんなことを思っているうちに、茜さんはどたばたと準備をしてあっという間に玄関に立っていた。

 

「んじゃ、いってきます」

 

「いってらっしゃい」

 

そんな意味なんてないのだけれど、今日はたぶん、いい1日だ。

 

 

こないだ考えてた車載動画の案をもうちょっと具体化してみる

前回色々と思いつくままに書いてみたものをもう少し簡潔にまとめたりしてみる。

 

■タイトル(仮)

「自由」にナレーションを添えて!

 

→略称は「自由にナレ!」

 

■動画コンセプト

「自由にナレ!」は以下の3つの自由を確立できることを目指す

 

1.動画視聴スタイルを自由に

映像を見ていても、ナレーションを聞いているだけでもOK!

好きなスタイルで再生できる構成で視聴者を自由に!

 

2.ナレーションも自由に

ソフトウェアトークのキャラたちは映像を最低限補足しつつ、

その他はのんびりフリーでしゃべってもらうことで、ナレーションも自由に!

 

(3.投稿者も自由に)

動画の作成スタイルも投稿ペースも編集量も、なんとなく自由に!

 

■動画構成案

全体は10~15分程度でいったん考えてみる。

 

1.OP(~00:30)

ラジオ的なイメージの進行なので、OPがないと不自然な入りになる。なのでこれは必須。メインではないので長すぎないようにする。

 

2.オープニングトーク(00:30~05:00)

今日のナレーション役の紹介と、動画のコンセプトを説明してもらう。これは毎回必須とする(この辺は声優ラジオ的なイメージ)。残りの時間はフリーでトークしてもらって、最後に「自由にナレ!」を掛け声として動画を一旦区切る。

 

3.イントロ(05:00~05:15)

動画の都合上使いきれなかった写真とかを挿入する感じで区切りを入れる。

あるいは架空の企業を考えて「~の提供でお送りします」って感じにするか?

 

4.行先、道など紹介(5:15-8:00)

簡単な道紹介と、今日の移動手段などを紹介してもらう。バイクのフィーリングとかを伝えたい場合は、「投稿者コメント」としてキャラに読み上げてもらう。あとは、行先とかを話のネタにフリーで話してもらう感じにする。

 

5.箱番コーナー(8:00-11:00)

緩急を付けたいので、少しゆったり目のイメージのコーナーを入れたいと思う。

 

★コーナー1(案)

伊織弓鶴の旅散歩

概要

旅先のスポットで歩いた景色を、BGMを付けないで環境音と弓鶴くんのナレーションだけで流すコーナー。イメージは音のソノリティ。

 

★コーナー2(案)

琴葉姉妹の地名めぐり

 

概要

旅先の地名の由来を可能な限り遡って解説するプチ解説コーナー。旅先の地名の由来を知ることで、旅を多角的に味わってみようという趣旨のコーナー。

 

※これは結構調べるのが大変そうなので挑戦的

 

6.イントロ2(11:00-11:15)

なんか適当にキャラに叫んでもらってもいいかも。

 

7.後半~ED(11:00-15:00)

旅の終着点を見据えつつ、トークしてもらう。旅が1動画にまとまらなかった場合は、次回の道をなんとなーく紹介してもらって、最後に今日の感想などをキャラにしゃべってもらう。

 

考えてた車載動画のコンセプトとか適当に書いてみる

考えてみたけど、考えているうちによくわからなくなったのでとりあえず整理だけしてみました。

 

◎コンセプト

車載だけど、映像がメインじゃない、自由なスタイルで再生できる車載動画

 

◎個人的な課題(上記コンセプトに至った経緯的な)

★課題1

「動画の編集技術がすごい、撮影に手間がかかっている=いい動画」ではないかという根本的な疑問

 

★理由など

1.なんとなく見れる動画が欲しい瞬間がある

 

作業しながら見るという人も多いので、そちらにフォーカスする方が相対的に「良い」と思う人が増えるのではないか?

 

2.投稿者の負担が大きい

技術の習得にはそれなりの時間がかかり、かつ習得したとしてもそれを実践するのは時間的コストが高い

 

投稿頻度の低下、中止を招きがちで、長期的な目線で見るとマイナス(シリーズ物は継続的な視聴が出来ることに価値があるため)

 

★課題2

車載動画のボイロは投稿者の代弁者としての役割が強く、キャラの個性を活かすのが意外と難しい

 

★理由など

キャラクターを活かすには「ストーリー」が必要であり、これを旅という撮影時は未確定なことも多い状態で撮影している都合上、安定して生み出すのは容易ではない。そのため、キャラクターとしてよりも代弁者としての役割に割かれがちである。

 

 

▪️動画の制作方針概要

★方針1

投稿者が旅した映像を極力そのまま流して、それをボイロにナレーションしてもらう

 

★理由・具体案など

映像を編集しなくて良いのであればそのままにすることで、映像へと偏りがちだったコストを抑えて、投稿者の負担が軽減する。

 

★方針2

投稿者の感想とキャラクターの感想は明確に区別する

 

★理由・具体案など

投稿者の感想は、キャラに「台本」として読んでもらう。また、キャラクターの個性を活かせるように、グルメなどの感想も、「スタジオに持ってきてもらう」などのキャプションで対応するとか、すこしキャラクターが感想を述べるところには気を使う、可能な限り状況的な工夫で乗り切る。

 

方針3

フリートークとは別にコーナを設ける

 

★理由・具体案など

ただ話すだけではメリハリがなく、話し手も聞き手も辛くなりがち。なので、「行き先紹介」などを設けてトークテーマを補充しつつ、メリハリを入れる

 

★方針4

ナレーターは交代制かつ複数回と単独回あり

 

★理由・具体案など

一人で喋るのと対話では違った面白さがあると思うのでどっちの回も作りたい

 

★方針5

状況はなるべく、音声だけで伝わるような台本にする

 

★理由・具体案など

映像を見ていても、聞き流してもOKなように、状況は想像がつく程度に話す(ラジオのイメージに近い)

 

方針6

動画時間は510分程度にする

★理由・具体案など

あまり長いと大変になりがちなので

 

★この方式のメリット

1.極度に凝った編集が不要

映像はナレーションのための「材料」であるため、必要最低限の映像編集をすれば良い

 

2.ストーリーがなくてもキャラクターを活かせる

 

ナレーターとして独立しているため、ストーリーを旅に必ずしも関連させる必要がなく、キャラクターとしての個性を活かすことができる(気がする)

 

★この方式のデメリット

1.動画の区切りには多少配慮が必要

 

2.映像をそのまま利用するので、元となる映像はそれなりの尺が必要

数学ってやったほうがいいのかな?っていう話

勉強が必要か否かという話題が出ると大体名指しで言われることの多いのが数学。

 

では数学とは本当に必要なのかな?そんな事を自分なりに整理してみます。

 

◆目次

1.観点の分離

2.教養としての数学

3.学問としての数学

4.まとめ

 

1.観点の分離

 

まず、わたしの立場をはっきりさせると「やっぱり数学はやった方がいいんじゃないかなぁ〜」派です。

 

ですが、この「やったほうがいいんじゃないかなぁ〜」には色んな意味が含まれているので、多分これをはっきりさせないで話すと、聞いている人とわたしで認識がズレる気がします。

 

なのでまずそこを合わせることにします。

 

本当はもっと色々観点はあると思うのですが、ここでは「教養としての数学」「学問としての数学」という2点で観点を分けることにします。

 

これは個人的に思うのですが、「勉強してなんの役に立つんだ!」っていう人が知りたいのは前者が知りたい気がします。

 

わたしはどちらかというと「役に立つとかそんなこと関係なく楽しいよ!」ってタイプなので真っ先に話すのは後者としての数学です。

 

なのでたまに数学っていいよ!って話をされても響かない人がいるのはこういうズレがあるからじゃないのかなぁなんて思ったりします。

 

というわけでこう言う目次にしてみました。ご認識くださいね。

 

2.教養としての数学

 

さて、そんなわけでまずは教養、つまりは一般常識としてやっぱり知っといた方がいいよね!って話をします。

 

とはいっても「知っておいて損はない!」なんて言われたって自分はどうせ使わないし...なんて考えちゃいますよね。

 

そういう時、数学にはよくある考え方があります。

 

それは、「あったら便利!」を考えるより、「なかったらどうなっちゃうの?」っていう事を考えることです。

 

そうですね...もし数学がなかったら...今の便利なものは殆どないかもしれません。

 

例えば、スマホ。これの裏側は数学的な理論がベースになって出来ています。なので数学がなかったらスマホいやそもそも電話なんてものがないかもしれないですね。

 

え?それはなんとなくわかる?だって機械はコンピュータで動いてるからそうだって?

 

そうですね...じゃあそうじゃないものも考えてみましょう。

 

さて、お話をご覧になっている方がおいくつなのかわたしにはわからないのですが、保険って知ってますか?

 

生命保険、自動車保険、火災保険、もしものために必要ですね。例えば車で事故を起こしちゃった時、保険がなかったらどうなっちゃうでしょう?困っちゃいますね。

 

でももし数学がなかったら、保険なんてものはこの世に存在しないかもしれません。

何故かって?保険料ってどうやって決めると思いますか?

 

「なんとなーくこの人は事故起こさなさそうだからこのくらい!」

 

なんてそんなことしたら破綻しちゃいますね。

 

そこで

 

「このくらいの人だったら、事故を起こす確率はこれくらいだから、このくらいお金を取っておけば元がとれるな!」

 

となってるかは保険を作ってないのでわからないですが、確率論、つまり数学に基づいて作られている仕組みなんです。

 

この仕組みがなかったら保険屋なんてみんな商売あがったりです。

そしたら保険屋さんはいなくなっちゃって、みんな怯えながら車を運転することになっちゃいますね。

 

ちょっと大事かも?って思ってきました?

 

こんなように、数学ってみなさんが何気なーく使っている何かの下地になっているものなんです。

 

例えるなら道路と交通ルールのようなものです。私たちは車やバイクに乗る時、「おお!今道路の上走ってるな!」なんて意識しませんよね。

 

またみんな何も言わないけど、それなりに道路を走る時のルールを守っている気がします(たまにそうじゃない人もいますけどね)

 

数学というのは実はそういうもので、それはもう色んなところに道があって、そのためのルールや枠組みが整理されまくってます。

 

なのでこれをぜーんぶ引っこ抜いちゃうと大変なことになっちゃうわけですね。

 

そして色んな世界に張り巡らされているということは、普段は意識しなかったけどひょっこり顔を出してくることもあります。

 

じゃあこのひょっこり出てきた何かを「なんとかしてください!」って言われた時に出来ませんだと困ってしまうことも...あるかもしれません。

 

どうでしょう?やった方がいいんじゃないでしょうか。

 

え?じゃあそんなもの見えないところに行けばいいじゃんって?

 

それはそうかもしれません。

 

 例えば、わたしもスマホがどういう仕組みで動いていてうまく成り立っているのか、なんとなーくは分かるけど詳しくは知りません。

でもスマホの使い方は知ってますし、なーんにも困ってません。

 

 今はAIなんてものも出てきました。なんだかよくわからないけどいい感じに答えを出してくれるからOK!なんだか魔法のように感じます。

 

 しかし、実際は魔法ではありません。人間が作り出した枠組み、数学によってできています。

という事は数学を知っている人間ならば正体を見破れるかもしれません。この正体を見破れるかもしれないという可能性を持っている事が実はとっても大事です。

 

わからないって状態は人にもよりますが結構怖い状態なんですね。わたしはとっても怖いです。

 

なので「この世に張り巡らされている魔法のような仕組みが分かるかも!」にするために数学はやっぱり必要なんじゃないかな〜っていうのがまず一つ目です。

 

長くなっちゃいましたね。

 

3.学問としての数学

さて、ここまでは「必要になるかもしれない」数学の話ですが、ここからはまた別の話です。つまり、やってみたら「あれ、意外と面白いかも?」っていう数学の話ですね。

 

さきほど言った通り、数学っていうのはいろんな基礎になっています。なので数学を学ぶことはある意味、機械などを分解することに似ているかもしれません。

 

あるいは、積み木の様にいろんな形の木を積み重ねてお城を作るような、そんな学問でもある気がします。

 

ちょっと、これだけじゃ面白さがわかりづらいですね。では少し昔ばなしをしましょう。

 

おそらく皆さんは小中学生の頃、作図を習ったかと思います。そうです、定規やコンパスを使って書くやつです。

 

角の二等分線や垂直二等分線なんて単語をもしかしたら覚えていらっしゃるかもしれません。

 

この作図については紀元前、つまり2000以上前から実は研究されていました。古代ギリシアの人たちですね。

 

彼らは定規とコンパスだけを用いて色々な図形の作図方法を編み出しました。ここで編み出された作図方法というのは言ってしまえば神業的なやつです。

 

数学を少しやられた方なら「いやこんな補助線の引き方思いつかないよ!」みたいなこと思いませんでしたか?わたしも思ったことがあります。

 

上記のようなことは作図を研究する人にも同じでした。神の一手を模索し続ける、そんな学問だったわけです。

 

(この作図問題は色々な転換期があり、どれも非常に興味深く、そしてそれを書く余白も十分にあるのですが、少し話をするには疲れてしまうのでかなり話をすすめます。)

 

さて突然ですがみなさんに質問です。

 

正17角形はコンパスと定規だけで作図可能でしょうか?

どっちだと思います?

 

 

 

 

 

 

実はこれ、作図しなくてもわかってしまいます。

 

作図なのに作図しなくてもよいとはどういう事か、というと作図で作れる線の長さに注目するとわかってくるんですね。実はこんな事実が知られています。

 

定理

ある図が定規とコンパスで作図可能となる必要十分条件は、作図に必要な長さが、「加減乗除と根号の操作」の有限回な繰り返しによってあらわされることである。

 

はてどういうことか?といいますと、つまり図を書くという問題が作図で使う長さの問題にすり替わるということになります。

 

長さは数式で表されますから、作図したい図形の辺の長さを考えて、それを式に落とし込みます。その時に出てくるのが方程式です。

 

みなさんも中学校で一次方程式や二次方程式を解いたことがあると思います。実は方程式が解けると作図問題が解けるんですね。

 

さらにこのすり替えの良いところは汎用性の高さにあります。

 

例えば正三角形と正四角形の作図を取ってもその方法は全く違うでしょう。このようにある作図方法が別の作図方法に有効とは限りません。

 

一方で方程式で解くのは、次数を変えて考えればよく、全くとまではいきませんが類似した議論で作図可能かを判定することができます。

 

このように実際に図を描くのではなく計算だけでなぜか図形の問題が解ける。これってなんだかおもしろくないですか?おもしろいですよね?

 

こういった議論を重ねる面白さ、物事をいろんな角度から見る面白さが数学のいいところかなぁなんて思ってます。いかがでしょう?

 

ちょっとあっさりですが、「学問としての数学」について触れてみました。

 

(正17角形が作図可能かどうか気になった方はぜひ調べてみてください!)

 

4.まとめ

というわけで、今回は「教養としての数学」「学問としての数学」の両方についてお話しさせていただきました。

 

冒頭に述べました通り、わたしは「やったほうがいいんじゃないかな~」派です。

 

そこでまず「教養としての数学」というところで、数学はいろんなところに張り巡らされている道路の様なものだとお話ししました。

 

そしてそれを知っておくことで、ひょっこり顔を出した時に対処できる、仕組みを知ることができる。

 

だから数学ってやっぱり知っておいた方がいいんじゃないかなーという話でした。

 

次に「学問としての数学」をほんのすこーしお話しさせていただきました。

その中でいろんなことをいろんな角度から眺めて考えることって面白いよ!ってことをお伝えしてみました。

 

最後になりますが、これを読んでくださった方々が少しでも数学に興味を持ってくれたらうれしいなーと思います。

 

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

 

またいつか

 

 

 

 

 

 

 

 

夜風の後日談的な:春風

 朝食を食べ、食器を洗い、身なりを手短に整えて外へ出た。
最近、朝は散歩に出かけるのが日課になっている。

今日は少し曇っていて、春らしい天気という感じではなかった。

 (傘、あったほうがいいかな。)

すこし邪魔くさいが傘を持っていくことにした。

 (今日はどっち方面に行きましょうか。)

 散歩を始めたころは割と発見も多かったが、回数を重ねると目新しいこともなくなってくる。なるべく知らない道を通って頭に刺激を入れておきたいが、それがなかなか難しい。とりあえず昨日とは逆方向に歩を進めることにした。

 わたしは傘を手でくるくると遊ばせながら、周りを見渡すように歩いた。逆方向とはいえ、幾度となく通った道なのでやはり目新らしいものはない。だが、ここ数日で桜が満開を迎えたためか、いつもより華やかで、春の陽気も真新しさもないが、散歩をするには十分春らしい景色だった。

 (せっかくだし、今日は桜が見える道を歩きますか。)

 幸い、日々の散歩の中で桜がたくさん見れそうな道はよく知っている。良く知った道もこの感じならば気にならないだろうと思った。真新しさを求めていたのをすっかり忘れて、わたしは意気揚々と歩き続けた。

 平日の朝。

 わたしは少し縁が遠くなってしまったが、本来はこの人たちと同じ方向に向かっていたかもしれない。すれ違う人たちを見てぼんやりと思う。さっきすれ違った男の人は、少し眠そうな顔をしていた。

 (わたしはどんな顔をしていたのだろう。)

 さっきの人よりもひどい顔をしながら歩いていたかもしれない。もっともあの頃の記憶を漁っても、わたしの顔は出てこないのだけれど。そんなたわいもないことを考えるわたしの足は、近くの川沿いの道に向かっていた。

 (きっと、あのトンネルも満開なんじゃないかしら。)

 川沿いの公園にはひときわ大きな桜の木があり、枝が丁度トンネルの様に垂れ下がっている。わたしは、いつも天然のトンネルだと少し浮ついた気持ちでそこを通っていた。町中の桜があれだけ綺麗に咲いているなら、なおさらだろう。わたしはすっかり邪魔者になった傘でコツコツと地面を叩きながら進んだ。

 やがてトンネルが見えてくると、私の想像通りの、いやそれ以上の景色が見えた。
枝のつま先から根元に至るまで、淡い色を付けた花びらで覆われた木が出迎えていた。
そして、足元には春を告げる足跡がついていた。

 春風が吹いて、また桜が足跡を付ける。
わたしは桜がつけた足跡をたどりながら、桜のトンネルを歩いた。

 トンネルを抜けると、ちょうど雲の隙間から日が顔を出していた。

 (傘、いらなかったですね。)

 わたしは桜のトンネルを写真に収めると、つい最近知った連絡先にそれを送った。

 (返信早いなぁ...)

 友人からの返事は、ちょっと恨めしそうな、でもうれしそうな感じだった。

  "今日の夜は花見やからな!"